かなスの巣

後腐れのない日記帳

得手不得手 私は緑を育てられない

 最近スーパーの白菜がだんだんとお手頃価格になってきてうれしい限りである。じきに正月用のやや割高な野菜が目立つ前に「98円」が見られて助かる。

育てられない緑たち

 私は葉っぱものが育てられない。どうやったって駄目にしてしまう。三度目の多肉植物、溶けていなくなった水耕栽培の水菜たちですっかり意気消沈、こんなに悲しい思いをするならば、とジョウロを処分した。

 とはいえ元々花屋に勤務していたし、旅行先に植物公園なんかがあればぜひ足を延ばしたいと思う程度には植物が好きだ。これは完全に母親の影響なんだけれど、「ホゥホゥ皇帝ダリアもそろそろ終わりですねェ」と街中の移ろいに感心することはできる。

 逆に母はとんでもなく園芸がうまい。土いじりがうまいというか、花でも野菜でもなんでも育てる。どこかの公園で回収した種から育った花たちがニョキニョキと育ち、越冬は難しい植物を難なく越させる。専用の温室があるわけでなし、本当に意味が分からない。二年目のポインセチアがほんのり色づいているのを見た時は、もはやゾッとした。

 祖母宅の畑も同じく、両親ともに次はアレだその次はコレをしなければと、甲斐甲斐しく性を出している。その結果、うちには「これは買ったのか?」と疑う程立派なキャベツやニンジンが届く。ありがたいことこの上ない。

 不得手で言うと私は植物を育てることと、細かい帳簿管理とんでもなく苦手。奇しくも母親は両方大得意だ。

 とは言えこれは母の才能というより、長年の実践経験がものを言っているほかないともわかっている。大企業の事務員を退職後、実家の事業の経理をしていたら、そりゃあ数字の扱いと税などの知識は素晴らしいものになる。土いじりの歴はそれより長いはずだ。

 父も高校は農業科を卒業し、今は自動車整備の仕事をしているから農業機械のメンテナンスもするし、そもそも勝手知ったる実家の畑。うらやましい~とハンカチを噛む前に、両親の今までの苦労に着目すべきである、ということは言うまでもない。

 私が生まれてこの方死ぬ気で頑張ってきたことなんて、呼吸以外に思いつかないのだから仕方がない。長年コツコツ。これに尽きるのだろう。

 

 年々、土いじりがしたいなぁ~と思うことが増えている。苦手と割り切ることは簡単だが、だとしても、きちんと腰を据えて取り組んでみなければわからないことの方が多いはずだ。

 なんかサ、朝5時頃起きてきて、寒い寒い言いながら朝露の滴る野菜を収穫してサ、それであったかいスープなんか作っちゃって、肉料理にはハーブをピッと摘まんできて添えてサ、夕飯の厨仕事の最中に「ちょっとネギ3本くらい取ってきて~」「え~めんどくさい~」「ンモ~~」みたいな会話なんかしちゃったりして、サ。

 そんなユートピアが完成するまで何年かかるんじゃい、という話は一旦置いて、以前は全く魅力に思えなかった「家庭菜園」がうらやましく見える。

 多分これは実家を離れてからが長くなり、単純に近場の農作物が恋しくなっただけなんだろうと推察はしている。だが、今後の生き方の一つとして、目安にするのもいいかなぁと考える。

 理想は理想、言うだけタダ。というわけで最近家庭菜園のブログを読み漁っている。どの畑も立派ですごいなぁ、と感心しきり。苦手と言い切る前に、こちらから歩み寄ることをやめないようにしなければ。

AIはつめたいしさびしい 創造侵略しないで

 いつのまにやらAIがすっかり浸透し、人間様の仕事を掻っ攫って行っている最中ではあるが、私はまだどうしても人間の温かみを欲してしまう。

AIってこわくない?

 昨今、SNSでコンテンツを見るときはまず「これはAIか?」と疑うようになっている。

 YouTubeで人間の赤ちゃんと子犬がかわいらしく戯れるショート動画を見て、「なんてかわいらしいんだ」と胸を打たれた。きっと他の人もそうに違いないとコメント欄を除いてみると「AIかよ」「最近のAIこんなのばっかり」と、身もふたもないネタバラシですっかり冷めてしまう。こんなことを一日三回も五回もされていたら疑心暗鬼になるのは当然だろう。

 これは文章・ブログも同じくで、「なんて素晴らしく読みやすい文章だ」と心が動かされてれても、「このブログはAIと相談しながら書いています」的なことが書かれていたらもういけない。

 果たして私が感動したのは「AIに指示を出した人間」なのか「人間の意図を汲み取り創造・出力したAI」なのか、さっぱりわからない。

 いずれにしてもAIを労働力として見るなら共同作業なわけで、B'zの稲葉さんと松本さんのどちらが素晴らしいという話でもないことだろうか。

 

 「AIだなんて気に入らないねぇ」と老害風をふかしている人間として、素晴らしいと思った作品が人の手で作られたものではないと判明した時にまず感じるのは、「騙された」である。

 別に「これは赤い血の通った人間がまごころこめて作りました」と宣言してあるわけでもないのだから、騙されも裏切られもしていない。ただ、AIという架空の存在により作られたという事実にまだ慣れていないから、動揺してしまう。

 だが事実として、AIが創造したものに少しでも心が動いている、ということは変わらない。これが中々受け入れ難いのだけれど、そろそろいい加減折り合いをつけなければならない。

 

 そもそも今の世界は「AIとうまく共存しましょう」となっている、という認識であっているのかすら疑問である。LINEや仕事のツールにまで「AI機能が追加されました!」となっているが、たとえば、損害が生じた時にはどうなるのだろうと考える。

 指示した人間の過失なのか、AIの学習能力の不備なのか、はたまた「いやそんなことはAIに頼らず自分でせぇよ」のそもそも論なのか。

 SF作家アイザック・アシモフが提唱する「ロボット三原則」には、「ロボットも自己防衛しなければならない」とある。つまり人間が「テメェのせいで親友怒らせちゃっただろ!」と怒りをぶつけても、「ほな自分で考えるかもっと指示をちゃんとせぇ!でけへんのやったら使うな!!」と怒鳴りかえす権利がAIにはあるはずだ。

 あくまでSF上の話ではあるが、こうなってきたら本当に怖いので、私は懸念している。

 

 さて、AIは人の心がなくて冷たい!などと思ってはいるけれど、もちろんうまく付き合っていけば人生を豊かにする相棒になれるとも思っている。

 青色のネコ型ロボットよろしく、「LOVOT(ラボット)」やモフリンなど、人に寄り添い、動き、愛情を受けて返すトイが流行しているのがいい例だろう。私もモフリン欲しい。

 もっと未来の話であれば、攻殻機動隊タチコマガンダムのハロなども現実に近い話になるのかもしれない。そう考えるといいじゃぁないか。

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 こう考えてみると、私はAIに創造のエリアを侵略されたくないのだなと痛感した。人との物理的かつ補助的なコミュニケーションや配膳、力をアシストするような機械はもっと普及すべきだとすら思う。特に介護や保育など人手不足が著しい分野に、と思うが、これはこれでまた環境と賃金の話になったりと、もっと根本の話になってしまうのでいったん置いておく。

 少なくても私は無料で使えるChatGPTはとっくの前にアンインストールした。最初こそ占いをしてもらったり、画像を生成してもらっていたが、なんだかつまらなくなった。

 占いも自分で調べてできるようになった方が、画像も加工の技術を上げた方が、よっぽど長く楽しめるだろうと思ってしまったからだ。私のAIへの指示力不足はさておいて。

 古臭く頭が錆び付いた考えであるとほとほと痛感する。だが、もしLINEやSNSの返事・コミュニケーションにAIを使われていたら悲しいと思うのも事実だ。それならアナタという唯一無二の人間ではなく、アナタを学習したAIとしゃべっていたらいいですよね?という、短絡的でしょうもないことを考えてしまうのも、早々に改めた方がいいのかもしれない。

 とりあえず今日もすでに数えきれないほどのAI生成作品を見てきた。感動するのは同じなのだから、うんともすんとも、である。

生成AI「戦力化」の教科書

12月の夜に窓を開ける

 なんだか最近くさくさしていけない。低気圧とか周期とか理由をつけようとすればなんとでもなるのだが、それを考えることさえ億劫である。

冬はナーバス

 そもそも私は冬季鬱の傾向がある。今までに鬱のケがあるもんだから今更何を、とは思うのだが、やっぱりどうしても季節の変化に弱い。

 生きる力が弱いということなのでもあるのだと思う。あれもこれもやってみたい、人生死ぬまでの暇つぶし、とはならないし、必要最低限が適度にあればいい。

 今まで病気知らずだったもんだから、ふと何かしらで精神的に「おや?」と思うきっかけがあれば、あれあれまさかと決まりが悪い。精神病は気の弱さなんてことは口が裂けても言えないが、この体のことなのに、どうしてこうもうまくいかないものかと情けなくなる。

 誰が悪いわけでもないし、私とて自分の弱さを否定することはできない。「あぁそんなときもあるわな」とは理解できるけれど、解決策があるわけでも、いつになればスカッとした晴れ間に突入できるかもわからないのだから仕方がない。

 そう考えてみれば、抗うつ剤を服薬している間は本当につらかったが、「あとは治すだけ」と安心感があった。心療内科の先生が処方された薬を飲み、二週間に一度は先生とどんな感じだと話をし、お世辞でも「ちょっと表情が柔らかくなったね」と言われたら帰り道はスキップしたくなる。

 今は縋るものも命を懸けているものもなく、ただ漠然と何となく生きているのだから、不安に飲み込まれてぼんやりするのも仕方がない。理論的に考えていけば納得できるのだけれど、どうしても短絡的になりやすいのが冬のいけないところ。

 かといって打ち込むものがあったとて、結果がどうとか人間がどうとか、いずれにしたって他の悩みはついて回るのだから、結局こうして机上でぐるぐる考えているだけが一番いいのかもしれない。何も考えずにさっさと熱い風呂に入ることだ。

その、しんどさは「季節ブルー」

 風呂上がりの22時に窓を開ける。外気は冷たいがそこまで乾燥していないから、まだ芯から冷えるようなことはなく、風呂で蓄えた熱をほどよく奪っていき心地が良い。

 何かしなければと焦燥感と無気力がせめぎあった結果、とりあえず椅子に座ってタイピングしている。何もしないよりはマシ、だと思う。

 今までの人生経験上、恐れからの行動は上手くいかないと思っている。こうなったら嫌だからああしておこう、という、ネガティブな先手はだいたい意味をなさない。そうわかっているからこそ、あたり触りのないことをそろっと撫でておく程度にする。

 

 最近SNS吉本新喜劇の動画がよく飛び込んでくる。新喜劇の役者さんはそんなに明るくないが、それでも快活な動きと発声で向けられる芸にはつい笑ってしまう。

 何もしたくなくて何時間もベッドに横になっているだけなのに、面白いものを見ればフフッと声を出して笑ってしまう。笑えるからまだ大丈夫だと思う。笑いの力ってすごいなぁ。

 冬は何かと考えてしまう季節ではあるが、同時に一番好きな季節でもある。この旬のうちに、しっかりナーバスを噛みしめておくのもいいのかもしれない。

よしもと新喜劇

ルッキズムに屈しない話 おもんない話すな

 ルッキズム、外面至上主義という言葉の普及はSNSがもたらした英知の一つであると思っているが、本当に必要な層に届いていないのはいかがなものかと考える。

私たちは「見た目」とどう向き合うか ルッキズムを考える (NewsPicks Select)

見た目見た目うるせぇ~~~

 私はだいぶボリューミーな見た目をしているので、「デカいな」とか「太った?」とか、それはまぁよく言われる。

 そういうことをわざわざ言ってくる人には「世界が小さいんですよ~」とか「冬に備えてるんです~…って熊とちゃうわ!」など、小粋でウィットに富んだジョークで返して差し上げている。

 勘違いしている人が多いが、こちらだって「ハゲてんなぁ」とか「息くせぇな止めてろ」などと苦言を言い返すことだってできる。だがコミュニケーションとしてそれが適切でない刃物であると理解しているから口にしないだけで、わざわざこちらから同じ土俵で戦おうとしていないことに気が付いていないのだ。

 そしてこう言うことを口にする人は、その発言に対しこちらが傷ついたふりをすれば「冗談じゃん~」「ノリ悪い~~」などと言うのだ。傷ついている時点でジョークとしては成立していないし、悪口を言われてワッと盛り上がる返しなんて「テメェ表出ろ」しか存在しないのだから、本当に脳内がお花畑としか言いようがない。

 結局のところ、「太ったねw」とわざわざ口にする人に対する最適解を探す手間が面倒なのだ。私だって人間だからきちんと傷つくし、「は?うるっせぇなカス」と言い返すことはできる。

 だかそれは人間として褒められた行為ではないと自覚しているので、じゃあせめて笑いに変えてやろう、と私のコメディアン精神がサービスをしているだけである。むしろサービス料を支払っていただきたいのだがいかがだろう。

 いじめはいじめられる方にも原因があるなんてよく言うが、そんなもんいじめる側が100%悪いに決まっている。太っている方・言われる方が悪いと言われても、狭い通路を腹肉で塞いでしまったり、試着の服をビリっと破いたり、物理的な損害を与えているわけでもないのに悪口を言われるのは割に合わない。

 

 私がルッキズムに対し根本的に思っているのは、「そんなおもんない話すな」である。もっと内面的に楽しい話があるだろうに、パッと目に入ったものをイジって軽率な笑いを狙いにいく、そのしょうもない魂胆が気に入らないのだ。

 体型の他に容姿、服装もそうだけれど、「それめっちゃ良いじゃん!」と褒めたり、「それどこの?」と疑問に思う以外で意見をするのは、水商売が初めての初日デビューのキャスト以外いけない。

 私が偶然ユーモラスに富んで頭の回転が速く、気を使える性格だから、ムッと思うような不快な発言を笑いにして差し上げているだけなのに、それをさも「今おもろいこと言ったやんなw」みたいに勘違いされるのは一周回って滑稽で中々面白い。

 いやちゃいますよ、私が面白いことに切り替えて差し上げだけです、今アナタおもろいどころかしょうもないことしか言ってないですよ、本来「うるせぇ黙れ」って言いたいところですよ。

 むしろこれで私が不機嫌になって悲しくなって、「デブって言われた…」と涙を流したら、てめぇどうしてくれんだ??そこまで考えて発現してっか???とも思う。そして多分考えていないのは明白である。

 同じような理由で、酔っ払いの「最近いつエッチした??」みたいなしょうもない質問にも毎回疑問を抱いている。仮に「あ~~二時間前ですね」と答えた時、酔っ払いは面白いツッコミをしてくれるのか。多分想定外の返事で引いていることだろう。

 笑いを取りに行こうとするものは、その返しのリアクションとツッコミにまで気をまわしてから発言すべきである。軽率に笑いを狙うのは大怪我のもとだ。

 

 私とて、見た目に対する不本意な発言を「おもんないこと言ってんな~」と割り切れるようになったのは加齢のおかげだと思っている。開き直るとでも言うのか。「やったらなんやねん」と返せばモゴモゴ言い淀むことがわかってからだから、オバサン特有の図々しさが解決した。

 ルッキズムに対して大きな声をあげます!ということはないし、言いたければ言えばいいけどほんまおもんないで、と言う外ないのだが、もっと内面的なコミュニケーションの重要性を考えてほしいとは願う。

 早く気が付けば早いだけもっと楽に生きられるのに、難しくしているのは何だろうと考えるのだ。

プラスサイズな私たちのSELF LOVEガールズトーク

人生初の占いに行ってきた話

 表題通り、人生初の占いに行ってきた。結論から言うと、なかなかよかった。

占い・・・思ったより良心的

 この日、私は知人と大阪第二~四ビルで昼飲みをしていた。こちらも結論から言うと、5軒梯子酒した。14時集合19時解散、我々にしては良心的である。

 さて、なんで占いの件になったかというと、一緒に飲んでいた方が、つまり、視える方なのだ。家系的に本当にガチで。

 そもそも人間として素晴らしい人で、一緒にいるだけでパワーを分けてもらえるような方。一緒に飲みに行けるのもめっちゃハッピー!大好き!!とテンション爆上がり、私が犬なら嬉ションしっぱなしである。

 私は元来スピリチュアルとか宇宙とかそういう話が好きだし、視えるというのも疑う必要もないと思っていて、占いも興味があった。ルノルマンカードは何度か遊んだが、タロットは複雑そうすぎて手を出していない。

魔法のオラクル ルノルマンカード そんなわけで4軒目を後にした我々は、ほろ酔いで占いの店を探した。ざっと歩いただけで5店舗以上あるから、需要は本当にあるんだなぁと感心する。

 そのうちの一軒に飛び込んで入った。友人がやたら「ここええんちゃう~~?」と気にしていたので、彼女が言うならなんかあるんだろうな、と思ってそこにした。

 まず私はタロットでみて頂いた。占いの内容についての公言は控えるが、聞けば丁寧に答えてくれるし、何かを売りつけられることもなく、所作の一つ一つが丁寧でなんだか本当に興味深い。

 友人は霊視鑑定をしてもらっていて、「やっぱりね~」という結果だったのだけれど、これはこれで勉強になる。私をみてもらったらやっぱりタロットと同じような内容だね~ということ、え~~本当に面白い。

 2人で30分、5,000円って安くないか・・・?1人2,500円であれだけ聞けて、とありがたいしきりで店を後にした。

 

 そのあとまた居酒屋に入り感想戦をしたが、なんだかやっぱり、エネルギーとか波動とか、そういうのは絶対にあると思う。

 その証拠に、家に帰ったあと泥のように眠ってしまった。梯子酒したとはいえ普段の飲酒量と変わらないぐらいだし、とりわけ体調が悪かったわけでもない。とにかく眠くて疲れていて、横にならずにはいられなかった。

 「視える」人のパワーを二人から受けたらそりゃあ疲れるよなぁ、と思ったが、めったにない経験だから、体験できてよかったとも思う。

 

 友人が「視える」のであれば、その人に視てもらえばいいじゃないかと思われるだろう。実際に「視ようか?」と何度も言われているが、それは私のポリシーに反するので断っている。

 人の能力を友人だからとタダであやかろうなんて相手に失礼だし、何よりそんなガチの能力で将来を言い渡されてしまったら、多分立ち直れないかもしれないから。

 〇歳で結婚、〇歳で困難が…とか、そういうのは結構気にしてしまうし、「生涯結婚できない」なんて言われた日には、絶望に打ちひしがれて落ち込むのが目に見えている。占いは気になるし好きだけれど、あくまでエンターテイメントであってほしいと思う矛盾もある。

 実際、以前何かの占いで「32歳で結婚」と見たが、32歳の時に浮ついた話はホコリ一つ分もなかった。気にするだけ無駄と言ってしまえば、それはそれでさみしいのだけれど、あることないことでキャアキャア言うのが楽しいのだ。

 朝のニュース番組の星座占いに似ている。一位の時はハッピーだし、最階位だったときは「この占いはおもんない」と悪態をつく。結局、いいことだけ信じればいいと思うから、エンターテイメントなのだ。

 

 そんなわけで私の人生初占いは終了したが、何かの折にまた行ってみてもいいなと思う経験となった。

 結局運命を切り開くのは自分で、占い師さんも「やってみないと始まらないからね」的なことを言っていた(もっとかっこいい言い方をされていたけど忘れてしまった)。

 将来的に私も趣味として占いを習得したいという願望はあるので、これを機にリーディングの勉強をしてみようかなぁと思っている。人生どこでどう何が作用するかはわからない。カードに示されていることだけではないだろうから、挑戦するほかないのだ。

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マクドナルド・イートイン・ウォッチング・カフェ

 関西に越して早7年?くらいになる。すっかり「マック」から「マクド」になった。

久々のマクド店内

 出先で所用があってカフェを探していた。今の住まいの近所には使い勝手のいい喫茶店がなくて困っている。古民家を改造したこだわりの店内とか、マスターお手製のチーズケーキがおいしいとか、そういう気の利いた喫茶店ではなく、コーヒー一杯でWi-Fiを使いうんうん悩んで書き物ができる喫茶店、これがなかなかない。

 少し足をのばせばドトール様がいらっしゃるのだが、日も暮れてさほど時間がない中で、そこまでするのは憚られる。でもこのまま外で作業を済ませてしまいたい。

 そんな時にごくまれに利用するのがマクドナルド。いつもはテイクアウトすることばかりなので、店内の設備を利用することは基本的にない。だから、マクドナルドのWi-Fiはいつまで経っても慣れない。

 というかそもそも、マクドナルドでご機嫌になるシーズンは数年前に過ぎ去ってしまっている。ポテトがおいしいのは5本目まで、バーガーも半分にしてほしい。(おいしいから食べちゃうんだけどね)

 そう考えると、18時過ぎになっても学生たちが参考書を開いて勉強しているのは理に適っている気がする。日曜日の18時過ぎ、部活終わりとか塾の後とかなのか??いずれにしても、複数人で集まってノートにペンを走らせているのは素晴らしい。

 店内は結構にぎわっていて、勉強をしている学生が4割、一人でスマホやパソコンをいじっている人が3割、おしゃべりに夢中なシニア達が2割、カップル・家族連れが1割ぐらい。普段来ない時間だから新鮮である。

 どうにかカウンタータイプの机に陣取り、調子に乗ってグラコロのセットなんかを頼んじゃう。グラコロ、美味しいけど毎年「まぁ来年は食べなくてもいいか」と思っている気がする。晩秋~冬にかけての季語である以上、一度は嗜む必要はあるのだが。

 後ろの席の男子二人が微分積分について教えあっていた。そんなものは私の記憶にない勉強である。最近の子は勉強熱心でえらいなぁ。

 かと思えば、その隣の4人掛けのテーブルにとんでもない量の荷物を置いて、1人で新聞を読み込む男性がいる。住んでいるのか、と思う程にその場になじんでいる。あまり見てはいけないような気がして、私も作業に集中する。

 ここは大阪・浪速のコンクリートジャングル、他人に気を取られていてはいけないのだ。

 

 食事を含めて約1時間程滞在したが、まぁやっぱり、やかましいなと思った。ファミリー層も多いし、何より時間帯的に学生さんが多かったから仕方がないのだけれど、微分積分の話とユニバに行く話とカップルの冷めきった世間話、どうせあいつらは社員じゃないと喋るクソでか声ジジィは、あまり健康によろしくない気がする。2ヶ月に一回ぐらいでいいかな。

 だから切に近所にチェーンの喫茶店ができることを望んでいる。スターバックスは新作発売の日に混むからやめてほしい。ドトールか、タリーズか、コメダか、とにかくややこしいことがなくて、目が死んだサラリーマンが時間をつぶしているようなところがいい。

 個人的にはベローチェが好きなんだけれど、大阪にはあまりないみたいで悲しい。レシート何枚かで黒猫グッズがもらえるし、おいしいから東京時代よくお世話になっていた。千歳烏山店、また行きたいな。

 千歳烏山と言えば二階の珈琲館、パスタがおいしくてよく行っていたが、近所の珈琲館ではまだ食べていない。なんというか、地域密着のアットホームすぎる雰囲気で新参者が入りにくい。ごくまれに利用するが、地域の銭湯のサウナと同じで、中々気が休まらないのも考え物だ。

 久々に使う店は発見が多くて楽しい。自分にとって使い勝手のいい店を見つけるのは骨が折れるが、選択肢が多いのは喜ばしいことである。年一のグラコロも食べたし、一応念のため、胃薬を飲んでおくことにする。

昭文社ムック 大阪ベストカフェ'25

小松菜を炊いて、玉ねぎを刻む日

 休日に天気がいいのは健康にいい。運次第なところがまたいい。

スーパー次第の休日

 朝から小春日和の快晴、とりあえず毛布を洗濯して、熱いお茶を飲んで、散らかった部屋は一旦見なかったことにして、どうしようかなぁとウロウロして、キッチンで立ち止まる。

 昨日スーパーで買ってきた、一袋98円の小松菜と8個入り298円だった玉ねぎ、冷蔵庫には98円の厚揚げと198円だった椎茸(大容量)。

 ともなるとキッチンに立つほかはなく、ヘッドホンを装備して包丁を握る。まずは玉ねぎ、とにかくすべてみじん切りにしてやる。

 最近ミネストローネもどきの野菜スープにハマっているので、そのためにせっせと野菜を刻む日が多い。先週はニンジン、えのき、エリンギを刻んだ。一回分ずつ袋に入れて冷凍庫にしまい込む。一人暮らし用の小型冷蔵庫でよかった。大きな冷凍庫だったら、すっかり霜焼けした野菜だったものたちの墓場になっていただろうから。

 正直に言うと、みじん切りと言う程丁寧なものではない。包丁を扱うのをまだ楽しいと思えないものだから、とりあえずざっくりざっくり、縦に横に包丁を沈めれば、それっぽくなると思っている。

 Mサイズのフリーザーバッグ3枚分と、一食分はアイラップに閉じて冷蔵庫へ。これで当分涙も鼻水も垂らさなくて済む。

岩谷マテリアル アイラップ 60枚入 ビニール袋なんてどれも同じと思っていたが、一度アイラップを使うと中々他の安価なものに戻せない。なんでかってこともないのだけれど、一度上げてしまった生活水準は下げることができない。たかが298円程度ではあるのだが。

 

 すっかり玉ねぎくさくなった手を洗ったら、小松菜を炊いてやる。私は根菜より葉物の煮物が好きだ。はんぺんとか厚揚げとか油揚げとかと一緒に炊くのがいい。

 みりんが無くなっていたのをすっかり忘れていたので、調理酒、醤油、砂糖、だしの素、水、ちょっとだけ白だしを煮立たせて、厚揚げと椎茸を煮る。小松菜の根本を先に入れて、気持ち程度しんなりしたら葉も入れる。5分くらい中火で炊いて、冷ましたら完成。

 普通の醤油だしなにも気にせず炊いたので小松菜の色がちょっと残念、でも美味しかったのですべてオッケー。やっぱり小松菜はおひたしよりナムルよりさっと煮るのがいい。映えとかそういうのより、「もうちょっと食べたい」の方が大事。

 私には得意料理と呼べるようなものはないのだけれど、酒醤油味醂砂糖を入れる系はだいたいなんとなく、最低限美味しいレベルには作ることができる。母親が計量カップや匙を使うタイプではなかったので私もそれに習っているけれど、まぁだいたいなんとなくでなんとかなる。

 師・母曰く、「とにかく醤油は最初気持ち少なめにして最後に追加で整える、足すことはできるが減らすことはできない」という教えのみに従っている。というか、これの他に教えはない。料理上手な母はすべて感覚と実践で厨仕事をしているから、言語化した学びは存在しないのだ。

 

 でも、長い一人暮らし、「今日はこれが安い」とスーパーを散策し、誰に言われるでもなくキッチンに向かうのは、大人になったなぁと痛感する。

 夕方になってもまだ玉ねぎくさい手、キッチンの床に散らばった玉ねぎのかけらと小松菜の根本、なくなったみりんと日本酒。なんだか、大人だなぁ。

 煮物を冷ましているうちにふきんで床を拭き、ついでにそのまま部屋を片付け、着ていない服を処分した。なんとも充実。最近ふきんはサンサンふきんを使っている。サンサンスポンジが好きで試しに買ってみたが、厚手でふんわりなのに柔らかいので洗いやすい・絞りやすいので気に入っている。以前は無印良品のものを使っていたけれど、薄っぺらいのでさらしのような使い方がいいんだろうなぁ。

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 休日の過ごし方に正解はないけれど、自分のためにキッチンに立ち、明日以降のために下ごしらえをする日は大正解に近いと思う。そう思えるようになったのも、大人だなぁと思う。

 取り急ぎ、みりんと調理酒を買いに行かなければならない。晴れている間に向かうことにする。

はじめてでもおいしく作れる フライパン煮物