かなスの巣

後腐れのない日記帳

現実とSNSと承認欲求 三つ巴戦/怠惰な日々を彩る日課

リアルなSNS向いてな~~~~い

SNSと承認欲求は表裏一体の天であり沼でもあると思う。

ブログもとい日記とは、鍵付きの秘密の引き出しに仕舞い、夜な夜な一日のあれこれに思いを馳せる、厳かでメルヘンチックで、書き始めても三日以内に終了してしまうような儚い存在だった。

それが高校時代にはガラケーによるホームページ作りが流行り、『日記』はデジタルによる『ブログ』が一般的になった。mixifacebookの登場も重なり、公開範囲は自分だけから全世界(パスワード付きの場合は限られた知人のみ)となり、アクセスカウンターや「足あと」が気になりはじめたのが所謂『バズり』の始祖のような気がする。

アクセス数が多いからエライわけはない。内容が面白いからエライわけでもない。ただ、相互リンクの友人の数とか、「友だち/フォロワー」の数といった目に見える数値によって一喜一憂するのは、幼少期のプロフィール帳の枚数による劣等感と同じだと気が付くまでに少々時間かかってしまっただけだ。

SNSの切り分けとファンタジー

私はSNSと現実を切り離して考えるようにしている。現実からSNSへの輸入はあり得るがSNSから現実への逆輸入が苦手だ。カフェに行ったことをSNSには掲載するけど、対面で「あのカフェ行ったんでしょ?どうだった?」と聞かれるのはなんだかきまりがわるいというか、おもはゆいというか。

そもそも私は外見に自信がないから写真をSNSに掲載されるのがあんまり好きじゃないし、自撮り写真を多く上げている人なんて本当にすごいと感心する。

その昔まだインターネットが黎明期に近しい頃、はあちゅうさんが学生で顔出しをしてブログを始めるという暴挙にでた。当時インターネットなんて仮想空間であり、夢と希望と虚偽しかなかった世界に女子大生が顔写真を掲載するなんて危険しかない状況。当然容姿を叩かれるわ炎上するわで大変なんてもんではなかっただろうが、結果的にはあちゅうさんはスポンサーを募りタダで世界一周をしているし、発信によって職を得ている。

同じように私の大好きなオモコロのARuFaさんもブログから始まり現在のマルチクリエイターのような存在になっている。

それに対して私は『見られている』ことを変に意識してしまっていらぬことを考えてしまう。本当にインスタなどリアルな友人とつながるSNSに向いていない。うまく利用すれば仕事や肩書だって手に入るだろうに、どうしてもSNSを現実に持ち込むことが苦手だ。

「みました」スタンプを欲する大人

とりわけ苦手なのが「見たなら『いいね』押してよ!」といういいねカツアゲである。投稿に対して「いいね」もしくは「♡」を押せということだが、この評価することを軽んじている感じが本当に気に入らない。大人になった今だから周りにはあまりいないけれど、学生時代に「かなえは本当にいいねしてくれないよね」と言われて「いいと思ってねぇからだよ」とのど元まで出かけたことは忘れられない。

このはてなブログのいい点としていいねに近しいスターという存在があるが、言ってしまえばこれにどれだけの価値があるのかわかっていない。

私はめんどくさいタイプの偏屈やだから、「同情のいいねなんかいらねぇ、ちゃんと読んで心が動いた人だけ押してくれ」と思う。なんというか、小学生の宿題に先生が押してくれる「みました」のスタンプみたいなものはいらない。

「いいね」は日課の流れ作業でざっとポンポン押すだけの、形骸化した人付き合いの具現化のように思う。ところどころインクが掠れていたり、斜めに傾いていたりするのを味と言うのか、悪いことではないけれど私は必要ない。私と与えた同じものを数知れない多くの人にご挨拶程度に振りまいているものを「価値」と呼びたくないから。

本当にいいな、すてきだなと思ったものだけに評価をしてもらいたい。重ね重ね、本当にSNSに向いていない。

逆に「いいね」の価値を正しく理解していればリソースとして承認欲求を満たせる便利なツールになると思う。それか逆にただの数字として見るか。いずれにしても可視化されたインターネットからの評価は現代人にとって薬にも毒にもなり得るのだろう。

SNSの日々は続く

小学生の時、担任の先生のスタンプはいつも同じ「タマ&フレンズ」のタマだったが、ある日ウサギのスタンプになっていて「なんで今日はちがうんだろう?」と怪しむ日があった。先生に聞けばインクが切れて使えなくなったからというありがちな返答だったが、そう考えるとインターネットの「いいね」スタンプの手軽なことよ。

インフルエンサーという人物像ができあった現代において他人からのいいねは世界の批評よりも価値があるのかもしれない。実際にSNSがきっかけで現実に発生したできごとなんて掃いて捨てるほどあることは想像にたやすい。

古いオタクなのでインターネットに事実はないと思っている。その偏った思想を覆すように今日も「フォロワー〇万人の〇さん絶賛!」の商品が一秒間に何万個と売れ、写真映えスポットが流行するトレンドが生まれている以上、いい加減SNSアレルギーの治療に取り組むべきなのだと思う。

このはてなブログも半分はフィクションである。ブログエントリーはノンフィクションで事実のみ(特定を避けるためのボカシは入れる)だが、この「かなえママ」という人格については真実を明かすつもりはない。インターネットSNS大海原での「かなえママ」の存在なんて嘘でも本当でもいいのだ。このつらつらととめどなく垂れ流すブログにそんなに意味はないけれど、アウトプットのために日記帳の入った引き出しのカギを常に開けているだけのこと。

「いいね」自体はもらっても悪い気はしない。ただ、「これは本当にいいと思ったものなのかお付き合いのいいねロンダリングなのか」の判断ができないから苦しい。

そんなうるさいことを考えずとも良いというのはわかっている。いいねの真偽に惑わされている以上、結局私もまだ「いいね」の承認欲求に惑わされているということなのだから。