かなスの巣

後腐れのない日記帳

考える日/中二病からの自己認識論

 人は一人では生きられないとはよく言ったもので、生命維持活動としても、精神衛生的にも、一人で「人間として」生きていくことは難しい。

 だれもがアイデンティティ、自己認識について悩み苦しみ、何かにすがる思いで他者との線引きをしているのではないか。アイデンティティなんて小難しく言ってみたけれど、つまるところ「自分は何のために生きているのか?」と生理前のぐずぐずなメンタルの思想を人間は抱えている。そうでなければ哲学も、宗教も、恋愛も、真理を追究しようとする学問は生まれなかったのではないだろうか。

 何かにすがる、と言うが、これは依存の範疇なのかそうでないのか。はたまたもっと適切な呼び方があるのかわからない。張り合いとでも言うのだろうか。人間は役割を与えることで責任感が生まれ、人間同士の生活に関わり合いを持つきっかけになりやすいと言う。幼子に植物の水やりを当番制にして任せることで命と成長について勉強させる動機と同じだ。祖母の家の日めくりカレンダーは、家主が介護施設に入所した日で止まっている。

 30代も半ばの年齢になると、その対象がパートナーや子どもになることが多いのだろう。友人から「まだ子どもが小さいから仕事頑張らないと」「成人式を見るまでは健康でいたい」みたいな話をよく耳にする。そのどちらも持ち合わせていない私としては「もっと自分のために生きてもいいのに」と思ってしまうのだが、これは自分よりも大切な存在がある人にしかわからないのだろう。幼稚で身勝手に思える自分の所感が経験の浅さを実感させてほとほといやになる。

 

 そもそもアイデンティティを他人との関係性に見出すというのも間違っているのだろう。無意識のうちにそうなっている場合が多いのかもしれない。だが、他者と関わらなければ生きていけない以上、その一線をどこに置くか、またその適切な一線にいつ気が付くかは死活問題なほど重要だと思う。

 私は20代前半、生活のほぼすべてを仕事関係に委ねていた。遊ぶのは同僚たち、相談するのも他部署の先輩、休日のボランティア活動も同僚と同じだった。そしてふと、その環境から離れたいと思ったとき、他に足を踏み込める環境がないことに気が付いた。

 元来人間関係にリセット癖のある私は同じ環境にとどまるのが苦手だ。それをわかっていたはずなのに、一週間、いや一年のほとんどを会社関連の人たちとのスケジュールで構成していたものだから、抜け出すのにずいぶん苦労した。関係を断つことが難しいのではない、次の環境を見つけることがこれほどまでに大変とは知らなかった。調べてみれば、当時の私はアイデンティティ・クライシスだったと言える。当時にそんなけったいな名前を知っていれば心の持ちようは変わっていたかもしれない。

 

 結果から先に述べると、私は私に依存することにした。これはもう体裁も語弊もなく「依存」とした方がいい。他者や環境を標的にすると、いつか行われる新陳代謝により好きだったものが嫌いになるなんてことは珍しくない。人の入れ替わり、規則の改定、マンネリによる怠惰など、自分は求めていないことがどんどん代謝して変わっていく。そのたびにそれを咀嚼し受け入れていくことは、よっぽど大切なものでない限り難しい。無償の愛が成せる業でもない限りそんなことで自分を消耗させるのは無駄だと思った。

 極端な人間なので半端に人に頼ることを辞めた。悩み事があるなら自分で解決すればいい。そのために本を読み考え方や歴史を学んだ。一人がさみしいなら趣味なり勉強することを見つければいい。仕事は私一人の責任で動いているものではないからこの限りではないが、どこかで他人を頼ることを考えていると行動は半端になる。

 そう決意して実行したのが21歳くらいの時だったが、当時よりだいぶ丸くなったとはいえその気持ちは今も変わっていない。他人とか自分以外のもの・ことに自己認識を導いてもらうといつか痛い目を見る。まだ未熟な私だから尚更だった。しっぺ返しを恐れているのかもしれない。「今はこんなに幸せだけれど、いつか…」という恐怖心の現れであり、変な信仰心の一種なのかもしれない。いずれにしても、精神衛生上100点満点ではないだろうと考えている。

 

 他人から見た私は、かなり薄情者だと思う。付き合いは悪いし、頼ることをしない。一匹狼と言えば聞こえがいいが、他人に迷惑をかけないタイプの自己中だ。それでも仲良く付き合っていてくれる方々には感謝しかない。

 なんでこんな生理前メンタルみたいなことを考えたか、今私がこのブログにアイデンティティをを求めているのではないか?と感じたからだ。あまり公表していない私自身の思考をさらけ出している場なのだから感情が入ってしまうのは仕方がないとはいえ、一日に何本もエントリを増やしていくのは、私にとって今後良いことになり得るのか。

 もちろんすべてのエントリはそれぞれ全力で向き合って執筆しているし、ブログがツライと思ったこともない。むしろ思考を整理したり、自分でも気が付いていなかった感情を言語化したりと新たな自分を垣間見れて面白いコンテンツだと思っている。

 だが、いつか読者数や☆の数、アクセス数と言った目に見える評価を気にしだしてしまったら、今と同じような気持ちで向き合えるのだろうか。インプレゾンビなんて言葉ができて久しいが、SNSの側面に気を取られてしまっては意味がない。

 

 今のところは杞憂だが、将来どうなるかわからないので、ここで今の心境を書き留めておくことにする。将来の自分がこのエントリに救われるのか、はたまた苦しめられるのかわからないけれど、少なくても、私はそんなことで悩むほどブレやすい人間ではないはず、と記しておく。

 アイデンティティという言葉を知ったのは椎名林檎さんの楽曲がきかっけで、中二病満開の当時は小難しいカタカナに興奮したものだ。それから数十年経って、ふと本来の意味と自身はどうだと気にするようになっただけでも充分に成長していると信じたい。