アナタの常識は誰かの非常識 寿司の常識とは
という見出しで始まるさとうみつろう氏の名著「神さまとのおしゃべり」は非常に画期的かつ胸を打つキャッチーなコピーだった。と言う書き出しは幾度となく擦っているが、真実は小説よりも奇なり、まさしく、自分の常識を世界のルールと捉えていてはいけない。
デジタルに寿司が勝てるのかって
大変機嫌がよかった先日、ルンルンでランチを食べに出かけた先、それは日本が誇るチェーン店、回転寿司だ。
その昔「全商品100円の回転寿司があるらしい」と田舎の噂をかっさらったのは、かのダイソー御大の登場以来の黒船だった。そんなわけがあるめぇ、どうせ対しておいしいことはないだろうと高を括って向かってみれば、寿司にうるさい祖父も納得のクオリティに度肝を抜かれた。安くておいしい、それに注文もいちいち店員さんに話しかけなくてもタッチパネルでできる。これはなんて画期的。そう感嘆の声をあげていたのも、早20年前のことになる。
今でこそ120円~となっているが、それでも充分満足のおいしいクオリティを維持しているのだからありがたいことこの上ない。某ウイルスの影響により、各テーブルのタッチパネルから注文したもののみがレーンを回っている様は少しばかりさみしいが、逆に考えれば新鮮なものを最短で届けてくれるのだ。なにも悪いことばかりではない。

さて、そんなご機嫌な先日、近所の大手チェーン回転寿司店に昼前11時頃入店した。指定されたテーブルに向かう最中、3人のマダムが座るボックス席に集まる店員さん2人。ついつい耳がダンボになってしまう。
断片的な会話からの推測だが、どうもマダムたちが他のテーブルが注文した商品を間違えて取っている、ということらしい。「今流れとるこれは食べてええの?」「いえダメです」「なんやわからんなぁ」そんな会話から推測されるのはこんな状況だろう。
確かにマダムたちの言い分もわかる。以前の回転寿司と言えば常にレーンは賑々しく寿司が躍り、なかなか回ってこないものを店員さんに直接注文するシステムだった。それが今はタッチパネルで注文したものを席に届けるだけのレーンとなっている。届く前に鳴る音声案内と、席によって色分けされた受け皿を見分けて素早く回収する。あまりにもシステマチックになりすぎている。
その後テーブルからは、やれ近所の誰が毎日訪ねてくるだの、どこどこの病院で誰に会っただの、「銀色」と書かれた皿は取っていいだの、喧々諤々丁々発止、いつ食べているのかと心配になるくらいおしゃべりの絶えない声が聞こえ続けている。おそらくマダムたちにとっては目の前の回転寿司のシステムよりも、日頃のあれこれを話すことの方がよっぽど大事なのだ。店員さんにひとしきりの説明を受けた後、「わからんねぇ」「むずかしいわぁ」「早い時間やからしょうがないねぇ」と言っていたこと、おいおい、このシステムに時間は関係ないぞと突っ込みたかったが、ひっそり黙ってシーサラダをつまんだ。
なにが正解も不正解もないけれど、目の前でパッと提示されたものに「これが普通だから従ってください」と突きつけられたら、正直不快だろう。不快なうえに理解ができないときたら、でもしかしそれに従うしかないとしたら。機械化・AI化が進む現代では致し方ないとしても、中々難しいものである。
かく言う私の父(70歳)はスーパーのセルフレジができないと母が嘆いていた。田舎だからそもそもセルフレジなんてできなくてもいいだろうに、這えば立て立てば歩めの親心、できないことを恥ずかしいと思わせるもの考え物だ。昭和の男である父がセルフレジを使いこなしていたら、それはそれで複雑ではあるのだが、世の中できないよりできることは多い方がいい。これもまた二律背反なのかもしれない。
私はおとなしく食事を済ませて退店しようとしているが、3人のマダムたちはまだまだ話題がつきないらしい。いいことじゃぁないか。この後はまた近所の喫茶店で話の続きをするか、眠くなったからと各々の家で昼寝をするか、どちらにしたってとてもいい。
できないことが目の前にあっても、目の前の仲間たちとこれほど楽しそうにできるマダム達の方が、よっぽど逞しく世の中を生きていけるような気がする。少しのミスで落ち込んでいる私は、もう少し常識から外れてみてもいいのかもしれない。