集団生活が苦手だ。
暗黙の了解があることとか、いつのまにかヒエラルキーができていることとか。
誰と誰が付き合ってるとか誰が元カノとか。誰の兄弟がどうだとか。
そういう込み入ったことがあんまり好きじゃない。
もうちょっと詳しく言うと興味がない。だれが穴兄弟でも酒がうまくなるわけはない。
身内のゴシップほど自分に関係のないものはないと思っている。
だから人数の少ない地元を出た。
田舎特有の「あいつは地元を捨てた」みたいなくだらない雰囲気すら作らせないくらい、そもそも私はどこのグループにも属していなかったと思う。
定期的に人間関係をリセットしたくなることも分かっているからこそ、最初から踏み込まれるのも踏み入られるのも苦手。
そう考えると、「友人」とカウントしている人は片手もいない。
「同僚」「先輩」「上司」「後輩」「知人」「お客様」「仕事関係者」ぐらいの雑だが細かい分類として考えている。
何を持ってして友人とするか、そもそも友人がいるいらないという話は先祖代々終わらない論点だから一旦置いておこう。
つまるところ、私はその場に応じた上っ面の人間関係がすこぶる上手なのだ。
ある意味での「社会不適合者」なのだと思う。
加藤諦三著 「だれとも打ち解けられない人」
タイトルで買ってみた。
やたらむずかしく「だれとも打ち解けられない人は幼少期の親子関係に原因がある」と回りくどくしつこく解決策を明記するでもなく、ダラダラ綴っている。これだからPHP研究所はいけない。
幼少期の親子(特に母親)からの無償の愛情を受けていないから、成長してから他者に頼ることができないし、どこか一歩引け目を感じてしまうので愛情を信じられない。こんな内容だ。
幼少期の親子関係に問題があるという点では当てはまることはある。
だが両親の離婚や離別、劣悪な生活環境など世間一般的な、今でこそ児童相談所が絡むような内容ではなく、ただ他の家庭よりも厳しく育てられたというだけでこの著書を鵜呑みにできるような簡単な問題ではなく、この本に欲しい答えは記載されていなかった。
気軽に「飲みに行こう!」「連絡先を教えて!」と言える人種でありたかった。
夜通し飲み明かし、次の日二日酔いでつらいけど楽しかったね、また行こう!と言える友人との時間の使い方を若い時から実践したかった。
だが、私も30を超えて尚、「親の育て方が悪かったせいで…」などとダサいことを言うつもりは毛頭ない。
そしてよくよく考えれば、本当にしたいのかというとそうではない。
遊びに行く約束をしても当日になれば「約束するんじゃなかった!」と毎回後悔するし(行けば楽しいんだけど…)、朝方まで遊ぶより元気なうちに切り上げてきちんと休み、翌朝から行動するほうが性に合っている。
結局ないものねだりで、それらができている人を羨ましく思っているだけだと気がつくまでに長い時間がかかってしまった。
私自身、めちゃくちゃ遠回りで損な生き方をしていると思う。
これは正直両親を恨んでいる。申し訳ないが厳しさと過保護さは後で挽回しにくい事案ばかりを生み出す。
もっと早めに知っていれば出会っていればということなんて売るほどあるし、実際今も苦しめられている。
でもだからこそ、自分で踏ん張って探して迷って掴み取るしかないんだとも思う。
イヤだけどね。
来世はお金持ちの家で飼われる長毛種の猫になると決めている。
来世もまた自分に生まれ変わりたい!と思える日がくるのだろうか。
とりあえず、フィクションがノンフィクションになるようもがいてみるつもりだ。
イヤだけどね。