先日食事のマナーについて姑のように細かいことを書いた。口うるさいというかやかましいというか、ほっといてくれと思うだろうが、食事の様が美しい人とはまたご一緒したいと思うものだ。
人を良くする食
先日初めて知った言葉がある。「馬鹿(阿呆)の三杯汁」。汁物を何杯もおかわりするのは作法知らずであるということ、愚か者に限って大食いであるということらしい。なるほどなるほど、この言葉を考え付いた人は、中々に恨みがある人に歯を食いしばりながらお汁をよそったに違いない。
また、「居候三杯目にはそっと出し」という川柳がある。居候という肩身の狭い暮らし故、おかわりもおずおずと、腹いっぱい食べたいが申し訳なさが勝るという謙虚さが垣間見える。
前者は食を提供する者、後者は食を提供される者、両者それぞれの見えない攻防戦が中々に面白い。日本人お得意の「察し」が試される場面でもある。
そもそも、昔は三杯目のおかわりはあたりまえだったようだ。一汁一菜におこうこ、少量のおかずで大量の麦飯を食らい、小腹が空いたとつまむようなファストフードもない時代。今とは異なる食文化と考えると、言葉の意味も変わってきてこれもまた趣深い。ただ「腹いっぱい食いたい!」という無邪気さだけでは煙たがられるし、かといって食わねばひもじい。欲望と礼節は難しい。
私は小・中学校の9年間は給食だった。全校生徒20人みたいな限界集落の学校だったため、給食の時間になると「ランチルーム」と呼ばれる広間に全員が集まり、学年も先生も関係なくランダムに決められた席で給食を頂く。学期ごとに席替えがあり、長机を囲んであれやこれやと話をしながら楽しむ食事は、今思えば食事のマナーを学ぶ場でもあった。
まず、「給食当番」というものがある。週替わりで担当が変わるが、これも学年関係なく縦割りで決められる。5・6年の上級生がご飯やお汁をよそい、3・4年生が配膳する。1・2年生はお箸や牛乳瓶、ゼリーなどを置いて回る。最後に余ったり足りなかったりしたら協力して振り分けて、決められた時間までにエプロンを畳んでロッカーにしまう。
「いただきます」の後は待ちに待った楽しい時間だが、隣近所は上級生なので少し緊張する。上級生の食べ方を見ると、パンはちぎってバターをつける、お椀を持つ、三角食べをする。家での食事とは違い、「他人が見ている食事」をしなければならないと幼いながらに感じた記憶がある。
特に食事のマナーや箸の使い方について指導された記憶はない。だが、先輩たちの食べ方を見よう見まねでしているうちに、それが当たり前になっていた。上級生たちも同じように真似て勉強してきたのだろう。素敵な歴史じゃないか。
食後は全員で協力してお椀を重ねて片付けをし、最後に給食当番が台拭きや牛乳瓶を洗う。ここでも上級生がテキパキと動くからそれを見て真似をする。おかげで学年が一つ上がった後の給食当番はいつもドキドキする。上を見て学び真似をする、というのは給食で得たことと言っても過言ではない。
つまるところ、私の食事マナーは小中の9年間で育まれたところが大変大きい。(家庭でも口うるさく言われていたが。)
もちろん社会人になってから直面する飲み会という場面では、また新たな学びがある。若者が率先して注文を取る、ビールは銘柄を上にしてお酌する、とっくりの注ぎ口は「円(縁)が切れる」から使わない(諸説あり)、など。別に知らなくてもいいことだが、知っていると「おっ通だね!」とほめてもらえるようなことばかりなのは、義務教育との大きな違いだ。
さらに歳を重ねると幹事としての動きとか、お支払いのこととか、もっと視野を広げる必要がある。人が集まる食事には見えない苦労がある。ただ美味しく食べるだけでは学べないことがたくさんあると知った。
こう考えると私は「食」に恵まれているように思う。だからこそ他人の「麺を嚙みちぎるのはいささか…」などと小さなことに目くじらを立てている。なんともつまらない人間だ。
おいしく食べられたらそれでいいじゃないか。「食べれる」ではなく「食べ『ら』れる」ですよね、など重箱の隅をつついていけはいけない。(でもこういう細かいところに教養ってでちゃうよね…といらぬことを考えてしまう。)
鯛も一人ではうまからず。コミュニケーションとしての食を勉強していくべきだ。
