かなスの巣

後腐れのない日記帳

アイネクライネナハトムジーク ほろ酔い11月の夜に

 気が付けば日付が変わり、霜月になっていた。寒さが極まり霜が姿を現す11月、「年末一歩手前」「寒さ」「年末調整」、忌々しい面々が顔を出し始める時期だ。

小さな夜

 ほろ酔いでふと思いつくことに意味はない。今日はアイネクライネナハトムジークって何??」だった。

 アイネクライネナハトムジークとはモーツァルト作曲のセレナーデの一つで、ドイツ語で「小さな夜の曲」という意の曲。第一章のアレグロは誰でも聞いたことがあるだろう、古いCMだが入浴剤「バスロマン」で使われていたあの曲だ。


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 語感的に米津玄師氏の「アイネクライネ」が思い出されるかと思うが、因果関係はない、ように思う。

 とりとめもなく思いついたことを調べる夜、酒で昂ぶり眠れそうにない夜、煙草のニオイが染みついた髪をかき上げる夜、中々、いい。

 普段なら鬱陶しいと思うことを「いい」と思うのは、ほろ酔いの証拠だ。

 

 この時期の「夜」と言えば「秋の夜長に…」という枕詞を思い浮かべる。これは9月の春分の日から11月の立秋までを表す言葉らしい。かの夏目漱石はこの季節に「明けたかと思う夜長の月明かり」と一句詠っている。澄み切った空気に冷え始めた風、夏より幾分鮮明に光る夜空を「朝かと思った」とおちゃめな勘違いを喜ぶ季節感はなんとも美しい。

 「秋の夜長」と言えど、1日が24時間であることは変わりがないのだから、電気文明が発達していない時代に思いを馳せる他ない。「暗くなるのが早くなってきたから家でゆっくり自分の時間を楽しもう」と、晴耕雨読に近い、自然の流れに逆らわず、お日様と月明りを大事にしましょうという寛容さを感じる。

 現代では月明りどころか街頭やまぶしく光るネオンで星さえも見えない。各家庭にコンセントがあり、スイッチをパチリと押せば煌々と光る蛍光灯、スマホからはブルーライトも溢れ出ている。こんな状況下で「秋の夜長に…」とひねっても、誰の心にも響かないのは明白である。

 

 「夜」と結びつきやすいのは「寒い季節」のように思う。夏は夏で星空の大三角とか、三尺玉の零れんばかりの花火とか。趣深いものは多数あるのだけれど、私にとって夜にふと思いを馳せることが多いのは、冬だ。

 キンキンに冷えた指先でコンビニのホットコーヒーを買った帰り道。半分に割ってハフハフと食べた肉まんのおいしさ。初めて覚えた星座・オリオン座がいつも鎮座しているからかもしれないし、ほうっと吐く息の白さを見つめた先にあるのが夜空だからかもしれない。

 いずれにしても「寒い夜」を美化しているのは間違いないのだけれど、私にとって冬の夜は、切ないけれど、それ以上にわくわくする夜なのだ。

 

 文明発達により夜・日の短さに対する関心は薄れているだろうが、これは侘び・寂びの文化に近しいものがあるような気がする。過不足を知り、シンプルであること。

 ひんやりとうすら寒い夜、「一枚上着を持ってくればよかった」と思う帰り道、私はこのさみしさが好きなのだ。鼻をすすりながら、コンビニであったかいお茶でも買おうかな、と悩むさみしさの中にある豊かさ。「小さな夜」とは、こういうことなのかもしれない。

 そんなとりとめのないことを、ほろ酔いの帰り道で考える。薄いハイボールだからと言って調子に乗って何杯もおかわりしてはいけない。こればかりは何度夜を経験しても学習しない、悪いところだ。