【読書感想文】 目 が (背筋)【視線の原点】ネタバレなし

こんにちは。読書の時間だよ
「目」は「見る」だけなのか
背筋さんの新作、「目が」。
小説投稿サイトから書籍化された『近畿地方のある場所について』、特殊なサイズでの出版から大ヒット、2作目の映画化となった『口に関するアンケート』に続き、今回は同じく体の一部である「目」にスポットライトが当った。


いや、当ってしまったのかもしれない。
私自身、『口に関するアンケート』を呼んで背筋さんの大ファンになったのだが、背筋さんの魅力はスポットライトを当てる角度にあると思う。
「ある場所」「口」「目」、それらはどれも当たり前のように生活になじんでいる。
だが、少し「見る」角度を変えれば途端に異形になり、底の見えない輪郭に深い影が落ちる。
つい先刻までは何もなかったものに恐怖を植え付ける。「目」に見える怪異が登場しないホラー、これが背筋さんの恐怖の真髄であると本作で確信した。
目が 背筋

本作も『口に関するアンケート』と同じく11.3 x 8.5 cmの特殊サイズで、およそ名刺2枚分程度、ポストカードよりも2回りくらい小さい。
何度も前作と比べて恐縮だが、これもページ数が少なくあっという間に読める。が、そこかしこにちりばめられた違和感が最後に濃縮される。
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」
19世紀のドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの著作『善悪の彼岸』に記された有名な格言である。
これはつまり、悪を罰することに没頭する余り、気がつけば自分自身が悪い方向に影響されてしまう可能性がある、ということを示唆している。
殺人犯に復讐するために自分もまた殺人を犯してしまうような、「ミイラ取りがミイラになる」に偶発的な悪意が付随した現象とも言える。
何らかの正義のために悪を罰そうとする時は、自らもその悪に染まらぬよう心を強く持ち続けなければならないーーそういうことだ。
どれだけの大義名分があっても、正義と悪は表裏一体の線引きしきれない関係にある。
が、この格言は心の揺れ動きにだけ適用されるものではない。
本作の「見る」「見られる」も同じ同意義と言える。
「視線」に関する研究をする大学生、「監視」する謎のバイト、何かを冒涜するかのような行動。
日常の「視線」について改めて考えてみると、「なにを見ているか」を意識することはなくても、「誰かに見られているか」をふと感じることはあるかもしれない。
人混み、行動、服装、場所・・・要因は多々あれど、「なんか見られている気がする」ことが快感に思えることはほとんどの場合において、ない。
むしろ不快で不安になる要素とも言える。夜の薄暗い道を歩くことが怖いように、得体の知れない物に対する恐怖はその実態が明るみにならない限り解決しない。
その恐怖が「視線」だった場合、どうだろう。
「見るな」ということはできても、「誰が」見ているかわからない。
自分以外の生き物に対し、アイマスクなどで目を覆うか、遮蔽物を置くかーー物理的に遮ったとしてもつきまとう不安がある。
その恐怖こそが本作の要因であり、ヒトの機能として、本能として、因習として、改めてそれらに付随する意図を考えなければならない。
正直なところ、前作を上回るほどの衝撃や恐怖はなかった。
が、「見る」と「見られる」の関係をこれほどまでに奇妙に描くのは純粋な狂気である。
背筋さんの作品には形のハッキリしたおどろおどろしいもの(お化けや妖怪などの類)は登場しないが、怪異に至る経緯が日常に潜んでいることを示唆する展開が多い。
それは例えばお風呂でシャンプーをしていたら背後が気になるとか、掛け布団から足が出ていると引っ張られるとか、そういった「怪談」に近いようなものを感じることもあるが、人間たらしめる、ヒトへの悪意が怪異の形で具現化しているとも言える。
その原因が、生まれながらに持ち得ているモノだとしたら、どうしたらいいのだろう。
少なくても、本書は死角の多い部屋ではなく、明るく開けた場所で読むことをオススメする。


